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こんにちは。阿倍野事業所の田中です。
暦の上では久しぶりの3連休でした。皆さまはどのように過ごされましたか?
私は楽しみにしていたトイ・ストーリー4を観てきて泣いてしまいました!
さて、今回は読書感想を投稿させていただきます。
池上正樹『大人のひきこもり 本当は「外に出る理由」を探している人たち』のご紹介、
そしてもう1冊、宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』にも触れさせていただきます。
池上氏はフリーのジャーナリストで、17年間に数百人規模の「ひきこもり」当事者と接してきたとのこと。
池上氏は、ひきこもり当事者とのかかわりの中で、「ひきこもり」は裕福な家庭、怠けている、親が甘やかしているという誤解や偏見があるけれども、ひきこもる当事者たちは本当は仕事をしたい、社会とつながりたい、自立したいと思っているということを感じてこられました。
また、ほぼ共通して他人を「傷つけたくない」「迷惑をかけたくない」という、周りの空気を読めすぎてしまうくらい心のやさしい感性の持ち主だと池上氏は感じておられます。こういった「ひきこもり」の人びとが自立しようとしても、ひきこもりの方々の高齢化などもあり、若年者を対象にした支援も利用できず、生活保護、障害者福祉、高齢者福祉などの対象から外れ、制度の狭間で「自立したいがどうしていいかわからない」という状況に陥っているということでした。
本の後半では、制度の狭間に陥っている方々が「外にでるきっかけ」になる「ひきこもりフューチャーセッション 庵」や「ひきこもり大学」のような実践がいくつか紹介されていました。
「ひきこもり」のように、社会問題が複雑に重なり合い、既存の制度では対応困難になった課題には、新しい実践を創り出していく必要があるのだと感じ、支援者として今ある制度・サービスだけで甘んじていてはいけないのだと強く感じました。
『大人のひきこもり』冒頭で、「ひきこもり」の本質をあえて一つの言い表すとすれば「沈黙の言語」と言える、つまり、ひきこもる人が自らの真情を心に留めて言語化しないことによって、当事者の存在そのものが地域に埋もれていく、と表現されていました。
池上氏は「トラウマとひきこもり」の関係を、宮地尚子『トラウマ』より「環状島」というモデルに依拠して説明されていましたが、
この「環状島」のモデルは「沈黙の言語」としてのひきこもりにも引き寄せて考えられると思いました。
私の本棚にも宮地氏著書『環状島=トラウマの地政学』があり、こちらでも同様「環状島」のモデルについて記述されていたので、「環状島」について少し触れさせていただきたいと思います。
写真添付させていただきましたが、本に記載されていた「環状島」のイメージ図の模写です(私の手書きです)。
宮地氏は「トラウマのまっただ中にいる者は声を出せないし、生き延びることのできなかった死者が証言できることはできない」と、原爆被害でいうと〈ゼロ地点〉に近づくほど死体の形さえ残らない、証拠が残らないことになる。〈内海〉は犠牲者の沈んだ領域、当事者は〈尾根〉の内側、〈内斜面〉に位置し、症状や被害、負担の重い人ほど内側に位置する。非当事者は〈尾根〉より外側、支援者や関心のある者は〈外斜面〉に位置し、コミットメントの程度が強いほど〈尾根〉に近づく。右側図の平面ドーナツ状の地域は、被害に遭ったけどなんとか生き延びた人たち、証言が可能になった人たちと重なる。
私が初めて「環状島」の説明を読んだとき、図の〈内海〉にいる人たちの声は聴けないのだということをとてもわかりやすく理解できました。
宮地氏は「支援のもつ意義の一つは、〈内海〉から証言者を〈陸地〉に引き上げること」「トラウマの核心に触れえず、その周りをまわるしかない、というジレンマは必然性をもつ」「非当事者にしかできないこと、非当事者だからこそできることがある」とエネルギーあふれる言葉で訴えておられます。
『大人のひきこもり』で池上氏が「ひきこもり」を沈黙の言語と表現されていたのを見て、すぐさま、この「環状島」を思い出し、読み進めると、やはりなのか「環状島」の引用が記載されていたので、驚きと納得と両方の気持ちになりました。
話がかなり遠回りになりましたが、ひきこもり支援も、この〈内陸〉から引き上げるアウトリーチ、既存の制度・サービスにとらわれない実践を創りだしていくことが必要なのだと思いました。
今後の日々の支援の中では、核心には触れられないかもしれない、でもあきらめずに周りをぐるぐるまわる、支援者だからこそできることがあるという意識で取り組んでいきたいと思います!